(出典 i.rubese.net) |
松田聖子と中森明菜。当初はともに“ポスト百恵”として注目されたが、気がつくと1980年代を代表するアイドルとして人気を二分していた。
当時、CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)で南沙織や郷ひろみ、山口百恵、キャンディーズなどアイドルを育て上げ、日本を代表する音楽プロデューサーとして知られた酒井政利氏(7月16日没)は生前、女性週刊誌の取材に「2人はまったく違うタイプのアイドルのように見えるかもしれませんが」と前置きした上で、「私が見る限りにおいて聖子と明菜というのは根幹では共通していました。それはアイドルとしての虚像をデビュー時に作り上げたことでした。ただ比較されるほど聖子は“幸せ”の、一方の明菜は“孤独”の虚像となっていったのです。しかしそれを徹底したからこそ、アイドルとして成功したのだと思いますね」と語っていた。
さらに「ともにトップを維持できたのは事務所やレコード会社に守られていたからですが、売れたのは『私がすごかったからよ』と勘違いしてしまった部分もあったように思いますね」。
明菜の所属レコード会社だったワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の邦楽宣伝課で明菜の担当プロモーターだった田中良明(現在は「沢里裕二」として作家活動)は振り返る。
「僕が明菜を担当することになったのは、まだデビューして1年もたっていませんでしたが、正直いって社内ではすでに近寄り難い存在になっていました。今でこそ『明菜』なんて呼び捨てにしていますが、当時は、それこそ『明菜様』といった感じでしたよ」
一方で、明菜が「完璧主義者」で「自分の描く『理想像』に邁進(まいしん)していました」という。
「デビュー前から制作を担当していた島田雄三さんのシングルの配球は、それなりに新機軸だったと今でも思います。コンセプトもしっかりしていましたし、売りのツボはしっかり押さえていましたよ。ところが明菜は…。目に見えて島田さんとの関係が悪くなり始めたのは『十戒(1984)』あたりからでした。『飾りじゃないのよ涙は』の頃には、もう会話もないほど関係がこじれていました。とにかく島田さんが提案する、いわゆる『ツッパリ路線』が根本的に嫌で、プロモーターだった僕ですら、(明菜から)何度も聞かされていたほどです」
実際、田中の前にデビュー前から1年間、ワーナーで明菜のプロモーターを担当していた富岡信夫(現モモアンドグレープス代表取締役)も「バラードとツッパリを交互に出すシングル戦略はコンセプトとしてよかったと思いますが、ツッパリ路線にこだわるのは僕も疑問を持っていました」と明*。
聖子と明菜の違いについては、「聖子の場合は、どこかでアイドルを演じているように思っていました。でも明菜は基本的に路線を作らず、彼女の素材、魅力を生*ことを考えてきました。その違いだったのではないでしょうか」とも。
聖子と明菜では作品も違っていた。明菜とも親交のあった音楽関係者はいう。
「これは決定的な違いですが、聖子の作品はメジャー、つまり長調で始まりますが、明菜はほとんどがマイナーです。つまりまったく逆の作品で競い合ってきたのです。共に80年代を代表するアイドルですが、この違いを指摘する声はなかったですね。そんな中で井上陽水は本当に明菜のボーカルにほれ込んでいました。『飾りじゃないのよ涙は』の後も、明菜が出したカバーアルバム『歌姫』(94年)では、陽水自らタイトルを書いて明菜に贈ったほど。しかもこの時に書いたものがアルバムのジャケットになりましたが…」