(出典 Youtube) |
日付は、同社が1981年(昭和56年)1月5日に「ホームセキュリティシステム」を発売したことに因む。
このシステムは2014年(平成26年)6月に契約数が100万軒を突破。
現在では「ホームセキュリティ」という言葉が一般的な用語として定着している。
記念日を通して家庭の「安全・安心」を見直してもらうことが目的。
記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
セコムしてますか?
(出典 Youtube) |
新型コロナウイルス感染症の世界的流行によって大学などで「オンライン授業」が定着しました。
オンライン授業のメリットの1つに「録画しやすい」という点がありますが、アメリカで行われた研究によって「オンライン授業の録画を2倍速で見ても理解度は下がらない」という結果が得られました。
この研究は「テスト前に2倍速で再視聴すると、総視聴時間は変わらないが理解度が向上する可能性がある」と結論づけています。
Learning in double time: The effect of lecture video speed on immediate and delayed comprehension - Murphy - - Applied Cognitive Psychology - Wiley Online Library
Watching A Lecture Twice At Double Speed Can Benefit Learning Better Than Watching It Once At Normal Speed – Research Digest
「オンライン授業は2倍速で見ても理解度は変わらない」という研究結果を新たに発表したのは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のディロン・マーフィー氏ら。
マーフィー氏らは231人の学生を被験者として、YouTubeに存在する不動産鑑定に関する講義とローマ帝国に関する講義を異なる再生速度で見てもらうという実験を行いました。
それぞれの被験者に割り当てられた再生速度は、「通常速度」「1.5倍速」「2倍速」「2.5倍速」の4種で、ムービーはフルスクリーンモードに固定。
一時停止やメモを取ることなどは禁じられました。
それぞれの再生速度で録画を見終えた被験者に対し、マーフィー氏らは理解度を調査するテストを視聴直後と視聴から1週間後に実施。
その結果、「1.5倍速」「2倍速」の2種については「通常速度」と同程度の成績となりましたが、「2.5倍速」の場合のみ成績が悪化することが確認されました。
また、マーフィー氏らは「オンライン講義をを2回視聴する」ことによってテスト結果が変わるかどうかも調べています。
この実験では「1回目は通常速度で視聴したが、再視聴は2倍速」「1回目は2倍速だが、再視聴は通常速度」など1回目と2回目の再生速度の組み合わせを変えたり、2回目の視聴タイミングを「1回目の視聴直後」「テストの直前」に変えたりするなどさまざまな条件を試しましたが、テストの結果の向上につながったのは「テストの直前に再視聴する」という条件のみで、「1回目の視聴直後に再視聴する」「1回目と2回目で再生速度を変える」などは無関係だとわかったとのこと。
また、マーフィー氏らがカリフォルニア大学ロサンゼルス校の学生に対して行ったアンケート調査の結果では、85%もの学生が「通常速度よりも速いスピードでオンライン講義を視聴している」と回答したとのこと。
しかし、このアンケート調査においては91%が「2倍速や2.5倍速よりも通常速度か1.5倍速のほうが学習効果が高いと思う」と回答したため、マーフィー氏らは今回の研究で2倍速で見ても理解度は変わらないという結果が得られたことから「学生は特定の勉強スケジュールやテクニックを好むかもしれないが、その好みが学習成果を向上させない場合もある」とコメントしています。
マーフィー氏らは今回の研究結果について複数の問題点が存在することを断っており、アメリカの大学では10週間前の講義が学期末テストに出ることがあるのに対して、今回の実験におけるテストでは最長で1週間しか間隔を開けなかったという点や、今回の実験ではオンライン授業のテーマに不動産鑑定やローマ帝国など大学の講義としては比較的平易なテーマを取り扱ったという点を指摘し、「より複雑なテーマの場合にはうまくいかない可能性がある」と述べています。
(出典 news.walkerplus.com) |
坂本龍馬は教科書に必要か 大政奉還や薩長同盟、史実は
高校の歴史教科書から「坂本龍馬」が消えるかもしれない――。昨年11月に歴史教育の専門家らが示した用語の精選案について、「声」欄に賛否の意見が多数寄せられました。史料を基に龍馬や吉田松陰らの実像に迫った「司馬遼太郎が描かなかった幕末」の著者、一坂太郎・萩博物館特別学芸員はこれをどう見るか、話を伺いました。
――龍馬は教科書に必要だ、という意見が多かったです。
今の教科書で龍馬がどう書かれているかというと、徳川慶喜が朝廷に政権を返還する「大政奉還」のところで出てきます。龍馬と土佐藩重役の後藤象二郎が、藩主を通して将軍慶喜に大政奉還を勧めたと。しかし、ここに龍馬を入れるのは正しくない。龍馬が大政奉還を唱えたという根拠になっていた文書「船中八策」は、後世に創作されたとの説が有力です。龍馬が提唱したことを示す証拠は出ていません。龍馬は大政奉還が実現した後、新政府綱領八策という文書を書いていますが、当時の知識人たちが他に何人も言っている内容で、これも新政府に影響を及ぼしたという証言が見つかっていません。
――薩長同盟はどうですか。薩摩藩と長州藩が軍事同盟を結ぶ際に「龍馬らが仲介した」と教科書に出てきます。
薩長の間で何らかの周旋をしたという史実はある。例えば、薩摩藩から頼まれて「幕府が2回目の長州征伐の命令を出しても薩摩は動かない」という文書を長州藩に届けている。しかし、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に出てくる、彼の一喝で両者がいきなり手を結んだとか、そういう分かりやすいものではありません。
(出典 i.gzn.jp) |
(出典 pds.exblog.jp) |
(出典 Youtube) |
先日、映画『ブレイブ ―群青戦記―』のヒット祈願イベントが行われ、出演する渡邊圭祐さんが自身の性格をじっくり待つ徳川家康タイプと分析していた。
実際に、家康は辛抱強い性格だったのか、考えることにしよう。
■天下人の性格
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康については、その性格を言い表した有名な狂句がある。次に示しておこう。
織田信長「鳴かぬなら *てしまえ ホトトギス」
豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」
信長は気性が激しく短気なので、鳴かないホトトギスを*と命じた。秀吉は知恵者なので、鳴かないホトトギスを鳴かせようと工夫した。
家康は若い頃からの苦労人で辛抱強かったので、鳴かないホトトギスを鳴くまで待ったのである。それぞれの性格をあらわしていて興味深い。
この3つの狂句は、第9代平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に書かれたものである。
『甲子夜話』は文政4年(1821)から書かれ、静山が亡くなる天保12年(1841)に完成した。正編100巻、続編100巻、第3編78巻に及ぶ浩瀚な著作である。
この3句は「詠み人知らず」となっており、いつ誰が詠んだのかは不明である。
3人の天下人の性格が実際にこの狂句のとおりなのか不明であるが、江戸時代末期にはすでに定着していた可能性がある。
では、なぜ家康は辛抱強い性格になってしまったのだろうか。もう少し考えてみよう。
■苦労人だった家康
天文11年(1542)、徳川家康は松平広忠の嫡男として誕生した。
松平氏は三河を領していたが、その威勢は弱体化しており、駿河今川氏に従属していた。幼かった家康は、今川氏の人質になっていたほどだ。
永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、家康は信長の配下に加わった。
天正10年(1582)に信長が本能寺の変で横*ると、家康は羽柴(豊臣)秀吉に従った。
慶長3年(1598)に秀吉が病没し、その2年後の関ヶ原合戦で家康は西軍に勝利したが、
家康の完全な天下取りは慶長20年(1615)の大坂夏の陣における豊臣氏の滅亡を待たねばならなかった。
つまり、家康は信長と秀吉という2人の天下人に仕え、なかなかチャンスに恵まれず、辛抱強く待たねばならなかったということになろう。
その事実が先の狂句に反映されたようだ。
また、江戸時代には「織田が搗き 羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに食うは徳川」なる狂歌も広まった。
これは家康が辛抱強いというよりも、棚からぼた餅で天下を取ったことを揶揄したものである。
■有名な家康の遺訓
ほかにも、家康が辛抱強いとされた根拠としては、以下に示す家康の有名な遺訓がある。
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり。
しかし、この家康の遺訓とされるものは、後世の偽作であると指摘されている。
明治になって、幕臣の池田松之介が『人のいましめ』(伝徳川光圀作)をもとにして、創作したものにすぎない。家康の花押まで似せていたのだから、手の込んだ偽造である。
この偽作を「幕末の三舟」の1人である高橋泥舟(ほかは勝海舟、山岡鉄舟)らが日光東照宮(栃木県日光市)をはじめ、各地の東照宮に奉納した。
これにより爆発的に世間に広まったのだ。
つまり、家康が辛抱強かったというのは、江戸時代に広まった伝承や偽作のようなものが根拠にすぎず、実際はどうだったのかよくわからないのである。
家康が辛抱強い性格だったというのは、今後の検討を要しよう。